経済・社会

2024.03.03 13:30

純粋経験、ストリートメディカル、政策VC……8つのキーワードから読み解く次の時代

Forbes JAPAN編集部
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「脱身体」はどこまで進むか─ 磯野真穂


身体とは何か。

「そこにあるでしょう」と私の身体を指さされれば、確かにそれはそうである。しかし欧米的な身体概念──身体とは生物学的に分析することのできるモノの集合体である──を相対化してしまうと、「身体とは何か」は「心とは何か」と同じくらい複雑な問いとなる。

例えば、20世紀初頭南太平洋ニューカレドニア島に住むカナク人を描いた『ド・カモーメラネシア世界の人格と神話』というエスノグラフィがある。著者は、フランス人の宣教師であるモーリス・レーナルトだ。レーナルトはカナク人に「身体=Body」に当たる概念がないことを驚きをもって描く。カナク人に自分と他者の境界となる外殻としての「身体」はない。だから彼らの精神はいわゆる「身体」を抜け出し、あちらこちらに飛んでいく。当然、「死」の概念も曖昧だ。

とはいえ、客観視と言語化を得意とする欧米由来の身体理論は私たちの理解を豊かにしてくれる。例えば文化人類学においては、身体を「象徴」と「エージェント」としてみなすふたつの大きな潮流がある。

身体を「象徴」としてみなすとは、身体にそれが住まう社会の様相が映し出されるということだ。この理論の先駆者である文化人類学者のメアリ・ダグラスは「人間の身体に刻み込まれるのは社会のイメージなのだ」と述べる。

例えば飢饉の可能性がある社会において、太った身体は上流階級の象徴であり、それが女性であれば条件の良い結婚の可能性を高めた。食物の希少な社会においてそれを蓄積できることは価値であるという理解が、太った身体に映し出されたのである。

しかし20世紀後半になると多くの地域でこの価値観が反転する。飢饉のリスクを可能な限り最小にした社会では、太ることは上流を意味しない。加えて病気は不運ではなく、自己管理の失敗とみなされる。痩せて引き締まった身体のなかには、身体を自己管理し健康でいられる人物こそが理想であるという社会の価値が顕現されているのだ。

他方で身体を「エージェント」とみなす潮流は、身体を社会に働きかける参与者とみなす。例えば近年盛んなボディポジティブ運動は、痩せていなくともおしゃれもできるし、幸せな人生を送ることができることを当事者たちが積極的に発信する運動である。つまり彼女、彼らの身体は既存の価値に抵抗するエージェントであり、そうすることで社会変革を目指している。この場合、身体は象徴、すなわち単なる社会の写し鏡ではない。

「象徴」あるいは「エージェント」として身体をとらえる見方はどこかでスッパリ区切りをつけられるようなものではない。このふたつは「象徴」を語り出したらいつの間にか「エージェント」に行き着くようなメビウスの輪として相互に連関する。

このふたつの見方をもとに未来の身体を考えてみよう。人間の身体は「脱身体」を志向しながら「象徴」と「エージェント」のメビウスの輪を巡り、ついには「身体」の実質と輪郭そのものを変えていくだろうというのが私の見立てだ。

文化人類学者のアンドレ・ルロワ=グーランは著書『身ぶりと言葉』のなかで、人間は道具を用いて身体の機能を外部化すると述べる。これは言い得て妙で、馬を、車を、さらにはZoomを使うことで人間は足の機能を外部化した。記憶を石板に、紙に、データベースに蓄えることで、脳の一部機能も外部化された。最近は、自分の身体を一切見せない歌手や作家も増えてきた。彼らはイラストかアバターとしてしか大衆の前に姿を現さない。つまりこれは外見の外部化である。

そしてこの外部化はとどまるところを知らない。ChatGPTは文章をつくり出す機能を外部化するに至った。女性の出産の負担を減らすため、バイオバッグによって出産を外部化しようという動きもまことしやかにある。

なぜ人はここまで外部化が好きなのだろう。私が思うにその理由は、身体が煩わしいからだ。人間は身体の手間をできる限り消去したい。歩いて移動するのは時間もかかって疲れる。書くのは手が疲れるし、保存しておくのは重くて大変。データベースならノートと違って容量はほぼ無尽蔵、手書きよりずっと早く、Siriやアレクサを使えば、書く手間すら省ける。身体の一切を見せなければ身バレの煩わしさから解放される。書くことどころか、文章を「考える」ことも手間なので外部化してしまえ。

人間は多分自分の身体が嫌いだ。それが象徴としての身体に映し出され、身体はエージェントとして社会の変革を志向する。結果、ひとつの煩わしさを消したら次の煩わしさが現れて、このイタチごっこは永遠に続く。

私は夢想する。人間が完全に「脱身体」を果たした時、やってくるのはレーナルトが描いたカナク人の世界かもしれない。身体という殻に閉じ込められることなく、いつでもどこでも自由に好きなところに行ける(ちなみにカナク人は、いつでもどこでも自由に好きなところに行くわけではないが、現代人にとって「いつでもどこでも自由に好きなところに」は必須である)。

それがいいのか悪いのかはさておき、身体の未来に「今の身体」はないだろう。

「脱身体」はどこまで進むのか。

注:この文章は生成AIによっては書かれていません。


磯野真穂◎人類学者・博士(文学)/ 修士(応用人類学)。早稲田大学文化構想学部助教。国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より在野の研究者となる。著書に『他者と生きるーリスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)など多数。

(文=磯野真穂)
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イラストレーション=ローリエ・ローリット

この記事は 「Forbes JAPAN 2024年2月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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