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2024.02.09 11:45

新華僑との世代交代が進む神戸南京町で「ガチ中華」の店を訪ねてみた

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1923年(大正12年)の関東大震災で、横浜中華街からの移住者が増えた。中華調味料の味覇(ウェイパァー)で知られる「廣記商行」の創業者の父親である鮑陰南もその1人。彼は清朝末期に孫文の政治運動に参加したことで日本へ逃れ、最初は横浜に住んだが、再び逃れて神戸に来たという。

神戸南京町は調味料の味覇で知られる「廣記商行」の創業の地。各種中華食材や調味料、月餅などを販売している

神戸南京町は調味料の味覇で知られる「廣記商行」の創業の地。各種中華食材や調味料、月餅などを販売している

昭和になると、広東料理店や北京料理店が現れた。こうして南京町を通じて中華料理がこの地に普及していくことになる。

ところが、1945年(昭和20年)の神戸大空襲で一帯は全焼。戦後はバラックが立ち並ぶ闇市となり、やがてアメリカ兵相手の外国人バーが林立、一般の日本人が寄りつかないような場所になった。

また1949年(昭和24年)の中華人民共和国の成立で、南京町に住む華僑たちは中国と台湾の政治的な駆け引きに巻き込まれることになった。

南京町に変化が訪れたのは、1970年代半ばになり、一帯が神戸市の区画整理事業の対象となった頃からだ。商店主たちは「南京町を復活させよう」と南京町商店街振興組合を設立した。こうして南京町の観光化への取り組みが始まった。

1980年代になると、中国の改革開放にともない中国人留学生が増加し、彼らと老華僑の交流が始まった。神戸の華僑たちは、祖国の故郷の公共事業に投資するなど改革開放政策を支持した。神戸華僑歴史博物館の展示解説は、こうした新華僑の来日を歓迎し、「共存共栄の時代」と呼んでいる。

1979年に創設された神戸華僑歴史博物館。海岸通りに面したビルの中にある

1979年に創設された神戸華僑歴史博物館。海岸通りに面したビルの中にある

南京町の外で増える「ガチ中華」の店

ここ数年、何度か神戸南京町を訪ねた筆者には、気になる2つの店があった。それは「蓮」と「東紫縁」という上海料理店である。

このうちの1つ、「蓮」のことを神戸華僑歴史博物館の展示では「新華僑女性による上海料理『蓮』の起業」と題してこう説明している。

〈奚静紅(けいせいこう)は1950年5月に上海で生まれ、上海中学を卒業後、来日までは上海観光旅行局で働き、御主人は貿易関係の仕事をしていた。現在、「蓮」は二代目の過雲波(かうんは)とその妻(南京出身)が経営し、すでに三代目が誕生している。

奚静紅は留学生として1988年に来日し、神戸の日本語学校で1年半程度日本語を勉強した。卒業後、大学院で研究生として引き続き2年間学んだ。1922年に南京町の恵記商行に就職し、阪神・淡路大震災が発生した1995年1月まで働いた。震災後は一時中国に避難した。

南京町には本格的な上海料理を提供する店がないことに注目し、1996年7月に南京町の路地友愛街に「蓮」を創業した。静紅は故郷の上海料理を日本人に紹介したいと考え、上海餃子や小籠包など簡単な家庭料理と点心の販売を始めた〉

その後、同店は神戸の中心地である三ノ宮やそごう西神店などにも出店する有名店となった。

ところが、今春、神戸南京町を歩いて「蓮」が閉店していたことを知った。そして、筆者が先に述べたもう1軒の上海料理店「東紫縁」も閉店していたのである。

新華僑が1996年7月に開業した上海料理店「蓮」は、現在「超超」という店が居ぬきで受け継いでいる

新華僑が1996年7月に開業した上海料理店「蓮」は、現在「超超」という店が居ぬきで受け継いでいる

西安門の近くにあった上海料理店「東紫縁」も昨年、閉店した

西安門の近くにあった上海料理店「東紫縁」も昨年、閉店した

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