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2022.02.12 17:00

時代の変わり目を読み切って完全復活したマイケル・デル

Forbes JAPAN編集部
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83年にテキサス大学オースティン校の医学部進学課程に入学したデルは、ディスクドライブやメモリチップを、急増するパソコン愛好家に売り歩くようになった。84年1月には、地元のIBMの販売代理店が過剰な在庫の仕入れを強いられていることを知って余剰在庫を10〜15%引きで買い取り、転売した。そして同年4月ごろには月に8万ドルを稼ぐようになって大学を中退。両親を落胆させた。

彼は在庫を抜け目なく管理し、直接販売モデルを採用することで最大40%低いコストでIBMパソコンを組み上げられることに気づいた。郵便と電話で注文を受けると、パソコンを組み立てて1〜3週間以内に発送し、顧客の注文から事業資金を調達した。21歳だった86年、収益は3400万ドルに達していた。そして88年6月、23歳で自分の会社を上場させ、3000万ドルの保有株を売却して資産数百万ドルのマルチミリオネアとなった。

テック業界の神童としてスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった初代の「30歳未満の起業家」クラブの仲間入りを果たしたデルは、彼らとともにコンピュータ産業を主流産業へと育てていった。91年、26歳でフォーブスの最も裕福な米国人400人に選出されたときの純資産額は3億ドル。パソコンの購入者たちは、デル社が提供する仕様のカスタム化やサービス、低コストを大いに気に入った。

10年に及ぶ天井知らず成長を経て、同社は2000年には世界最大のパソコン販売企業となり、その保有株がデルの160億ドルという富の基盤になっていた。

ところが、そこからデルの帝国に亀裂が生じ始めた。自身が火を付けたパソコンの利益率引き下げ競争が原因の一端だった。04年に引退した後、金融危機が発生する前に経営に復帰したデルが直面したのは、会計スキャンダルに苦しみ、ノートパソコンなどの大きな流れに乗り遅れた、混乱した会社だった。iPhoneやiPad、利益率の低いクロームブックの登場で、市場はデル社のサーバーやストレージ事業を時代遅れ扱いし始めていた。

12年になるとパソコンの売れ行きは急激に落ち込み、クラウドコンピューティングが台頭。同社は、図体ばかり大きくて前時代的なノキアなどと同一視されるようになっていた。ビジネスの方程式を変える必要があった。

「あれはチャンスでした。酸っぱいレモンも、甘いレモネードに変えることはできるのですから」

デルは当時をそう振り返る。

彼はそれまで、10年以上にわたってファミリーオフィスのMSDキャピタルに何十億ドルもため込み、熾烈な未公開株買い取りの世界に重点的に投資していた。シルバーレイクのファンドは初期の投資先のひとつで、共同経営体制が移行期に入った12年には、野心的な若きディールメーカーのイーゴン・ダーバンが大型投資に意欲を燃やしていた。ダーバンはこの年、ある会議でデルを探し出し、ハワイに家をもつという共通点をだしに面談を申し込んだ。

ハワイ州コナでの歩きながらの面談でダーバンは当初、デルの別の資産について尋ねるつもりだった。だが、2人で歩き始めて3分後にはデル社という大物に手持ちのチップをすべて賭けることにしていた。ダーバンは「非公開化すべきだ」と伝えたという。
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文=アントン・ガラ 翻訳=木村理恵 編集=森裕子

この記事は 「Forbes JAPAN No.089 2022年1月号(2021/11/25発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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